メル・オット


メル・オット

メルビン・トーマス・オット(Melvin Thomas Ott 1909年3月2日生)
 [アメリカ・メジャーリーガー]


 ルイジアナ州グレツナ生まれ。主なポジションは右翼手。右投げ左打ち。17歳でメジャーデビューし、22年間ジャイアンツ一筋で活躍、通算511本塁打を放った。16歳の時にサザン・アソシエーションのニューオーリンズ・ペリカンズの入団テストを受けたが、体が小さいことを理由に不合格。その後、ルイジアナ州パターソンのセミプロチームに月給150ドルで入団。その後、球団オーナーのハリー・ウィリアムズが、友人のジョン・マグロー(当時ニューヨーク・ジャイアンツ監督)へ「すごいタマを見つけた」という電報を打った。マグローの返事は、「そのタマをすぐにポロ・グラウンズへ送られたし」だった。そして1926年1月にニューヨーク・ジャイアンツと17歳で契約し入団。異例の若さでデビューした彼は、「ボーイ・ワンダー」としてファンの目を引く存在になる。5フィート9インチ(約175cm)、170ポンド(約77kg)と、さほど恵まれていない体格だったが、3年目の1928年には、18本塁打、打率.322をあげ、長距離打者としての真価を発揮し始める。

 オットはその後、日本で言う「一本足打法」(投球前から足を上げて構えるスタイル)で本塁打を量産、1929年に自己最高の42本塁打を打ったのを皮切りに、1932年には初の本塁打王を獲得し、以降1936年〜1938年の3年連続を含む、6回の本塁打王に輝いた。また選球眼もよかったのか、リーグ最高出塁率を記録したことが4度、四球数がリーグ最多となったのが6度ある。1936年以降は、シーズン100四球以上を7年連続で記録していた。

 1945年、ナショナルリーグの打者としては初めて500本塁打に到達、翌年からはほぼ監督に専念し、1947年に現役を引退した。1949年に、彼の背番号『4』が、ジャイアンツの永久欠番に指定されている。1951年、記者投票によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。

 ジャイアンツの監督引退後は、1955年から1958年まで、主にデトロイト・タイガースの試合の中継に関わっていたが、1958年11月21日、ルイジアナ州ニューオーリンズにて交通事故により亡くなった。

 1958年11月21日死去(享年49)


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