ヨーゼフ・シュミット


ヨーゼフ・シュミット

ヨーゼフ・シュミット(Joseph Schmidt 1904年3月4日生)
 [オーストリア・歌手/俳優]


 ドイツから移民した小作人夫婦ヴォルフとザラの間に5人兄弟の3番目の子である長男としてオーストリア=ハンガリー帝国領ブコヴィナ・ダヴィデンデ(現ウクライナ、ダヴィデニ)に生まれた。家族は敬虔なハシディズムで、ヨーゼフはシナゴーグで少年合唱団に参加し、その当時から頭角を表し、ソプラノ歌手フェリシティ・レルヒェンフェルトの下に声楽を学び、1925年からはワイセンボーンの発明者であり、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウの師であるヘルマン・ヴァイセンボルンに師事した。 この間にも、ヨーゼフはユダヤ人社会のコネクションを通じてオランダ・ベルギー等でもキャリアを研鑽し、ソロ活動やシナゴーグに於ける演奏活動を展開した。 活躍の転機となったのはラジオ放送であり、1929年4月18日、マイヤベーアの『アフリカの女』全曲の収録放送によるデビューだった。

 その評判は名テノール歌手のカルーソとも比され、「ラジオのカルーソー」の異名を取った。『イドメネオ』、『魔笛』でのブルーノ・ワルターと競演を初めとしてジョージ・セル、ヘルマン・シェルヘン等とも競演、1933年にナチスがドイツ帝国放送協会を国営化し、独善するまで20余りの全曲放送に出演した。しかし、極端に低いその身長(143cmもしくは154cm説がある)によるハンディキャップからドイツでは舞台に出演することはほとんどなく、1929年8月31日、ベルリン国立大劇場におけるラルフ・ベナツキー作『三銃士(オペレッタ)』の初演への出演記録が残されているに過ぎない。ナチスによるユダヤ系芸術家の強制排除によって、ドイツに於けるラジオ出演は1933年2月20日のペーター・コルネリウス作『バグダットの理髪師』が最後となった。

 ヨーゼフは、ラジオでの人気を背景に1931年に『愛する特急』 に出演以来、『ゲーテは生きている!』(1932年)『狩られる人々』(1932年)に出演し、1933年には主題歌のヒットと共にヨーゼフの名を後世まで名を残すことになった『歌は世界を駆けめぐる』まで4本のドイツ映画に出演している。また、ナチスがドイツでの映画界を統制してからも、オーストリアで3本の映画に出演し、中でも主役級の音大生を演じた1934年公開の『空から降ってきた星ひとつ』は代表作となった。

 また、それ以前にも1937年にはニューヨークのカーネギーホールに出演しアメリカデビューを果たし、1939年のシーズンにはプッチーニの『ラ・ボエーム』でロドルフォを演じ、ベルギーのブリュッセル・リエージュ・ゲント・アントワープ・オーステンデ等の劇場を廻り24回ステージに立った。ベルリンを追われてからは、その活躍の場をウィーンへと移したが、1938年の独墺合邦によって再び活躍の場を失い、1940年に南フランスのニース近郊へと居を移す。1942年5月のフランスのアヴィニヨンにおける出演が最後のステージとなった。しかし、ナチス・ドイツの侵攻はフランスにも及ぶところとなり、アメリカのエージェントがキューバへの脱出を図るための手配を進めたが戦禍にあって捗らず、1942年3月に出国査証がポルトガルの領事館から発行されたもののフランス政府によって出国を阻まれ、居場所を失ったヨーゼフはスイスへ密入国した。しかし、1942年10月9日、スイス当局によって、正式な政治亡命手続きを行ったユダヤ人ではないとされ身分を確保され、チューリッヒ郊外のギレンバート収容所に拘留された。

 抑留後、咽頭炎でチューリッヒの州立病院に入院し、その後も体調不良を訴えていたが、1942年11月14日に更なる精密検査は行われることなく強制退院となり、収容所に戻った後、懇意にしていた近所のレストランで体調を訴え、医師を呼んだがその一時間後午前11時30分に心不全で息を引き取った。死亡診断書には「1942年11月16日 38歳8ヶ月12日にて死亡 無国籍」と記された。家族に看取られることのないまま、チューリッヒ郊外のウンタラーフリーセンベルクにあるユダヤ人墓地に、収容所の仲間数人に見守られたまま葬られた。生きている間に墓参も叶わなかった母も、そこに共に祭られている。

 ヨーゼフの生涯については1958年にハンス・ライザー主演で伝記映画『歌は世界を駆けめぐる』が制作公開されている。生誕100年の2004年3月、ベルリンのトレプトウ・ケペニック区役所で記念式典が行われ、ハンス・アイヒェル財務大臣(当時)は「ヨーゼフ・シュミットの過酷な運命は、自由と人間の尊厳に立ち向かうための警鐘を与える。常に心を開き、人間らしさとその温かさの響きに対して沈黙してはならない。」と述べた。この年、ドイツポストは55セントの記念切手を発行した。ベルリン・トレプトウ・ケペニックのアドラースホーフにある音楽学校も「ヨーゼフ・シュミット音楽学校」と命名され、2007年6月4日、ヨーゼフが1933年まで住んでいたベルリンのニュルンベルガー通り68番地に記念碑が埋められた。

 1942年11月16日死去(享年38)


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