千葉ヶ崎俊治


千葉ヶ崎俊治

千葉ヶ嵜俊治(ちばがさきとしじ 本名:玉ノ井俊治 1893年4月10日生)
 [大相撲力士]


 千葉県生まれ。子供の頃から相撲好きで、地元で開かれていた宮相撲に参加しては大関を張って活躍していたため、1910年に同郷の二十山を頼って二十山部屋へ入門、1911年6月場所で序ノ口から初土俵を踏んだ。宮相撲で大関を張っていた実力は伊達ではなく、幕下時代の1913年5月場所では、それまで無敗の快進撃を続けていた栃木山守也に初黒星を付けて話題を集めた。初土俵から僅か4年後の1915年5月場所で新十両に、1917年1月場所で新入幕を果たすなど、期待に違わぬ順調な出世を果たした。

 大柄ではないもののあんこ型の体型で、突っ張りから鋭い出足を生かして左四つから豪快な吊り・上手投げを繰り出す正攻法の取り口で番付を上げていき、1918年1月場所で小結に昇進、この場所を8勝2敗の好成績を挙げた。この活躍が認められ、同年5月場所では九州山十郎と同時に大関へ昇進した。同時期に太刀山峯右衛門の現役引退と鳳谷五郎の横綱昇進によって大関の地位が空いた幸運はあったが、新入幕から僅か4場所でのスピード出世だった。

 当時は出羽ノ海部屋所属力士が5年10場所(当時は年2場所制だった)に渡って優勝を独占している全盛時代で、敵方(当時は東西制が採用されていた)に所属する千葉ヶ嵜は、常ノ花寛市・栃木山守也・大錦卯一郎などの強豪を敵に回しながらも善戦した。風格ある土俵態度も持ち合わせていたことから、1920年5月場所を最後に鳳谷五郎が引退した後は、千葉ヶ嵜こそが次の横綱と期待されていた。しかし、糖尿病を患ったことと、巡業先での野球観戦によって目を痛めたことや、土俵における気迫が欠けていたことから成績が悪化し、1922年5月場所では関脇に陥落した。その場所を6勝1敗3分として大関に返り咲いたものの、糖尿病の悪化から以前のような勢いは失われており、1923年1月場所を全休したことで小結へ降格、小結で2場所出場した後、1924年1月場所を最後に現役を引退した。

 引退後は年寄・玉ノ井を襲名して後進の育成に専念した。明朗な性格で人望が高く、清水川元吉が豪遊の末に事件を起こして破門された際には真っ先に引き取り、清水川の実父が自殺したことを受けて日本相撲協会へ復帰を要請、見事に復帰させた。日本相撲協会では理事も歴任し、1932年に勃発した春秋園事件では危機的状況に陥った協会の復興に尽力したが、身体への負担によって糖尿病が悪化、1933年1月16日に39歳で亡くなった。

 1933年1月16日死去(享年39)


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