許されざる愛

フランス王太子妃とスウェーデン貴公子が恋に堕ちて、2人は心惹かれ合い、運命に翻弄されながらも一途な愛に溺れて、お互いを守り続けた…。

2016年1月
(1792年1月4日付/マリー・アントワネットから、フェルセンへの手紙)の一部が改めて明らかになった。


マリーアントワネットから、フェルセン宛に書いた手紙



墨塗りの下から浮かび上がった文字は、『あなたを狂おしいほど愛しています。
一瞬たりともあなたを敬愛する事を止められません』
と、王妃の思いが書かれていた。


1755年9月2日
フェルセン伯爵は、強い政治的影響力と莫大な資産を持つスウェーデン王家に忠実な名門貴族で王室顧問であるフレデリック・アクセル・フォン・フェルセン侯爵の長男として、ルフスタッド城で誕生した。
フェルセンは、14歳の時にヨーロッパ歴訪の旅に出て、当時の貴族社会の習慣に従い、見聞を広げる為に3年間、ヨーロッパを遊学。
各国の王家や貴族階級との親睦を深めていた。

そして、教養を身に付けた後、18才でパリの社交界にデビュー。
容姿端麗なフェルセンは、瞬く間に上流社会の貴婦人達からの人気を得ていた。

1774年9月4日
フェルセンは、駐仏スウェーデン大使クル−ツ伯爵と共にヴェルサイユ宮殿で開かれた舞踏会に出席。
フランス王公からも好印象で歓迎された。
フェルセンは、この舞踏会で初めてマリー・アントワネットと出会った。



1774年1月30日
パリのオペラ座で開かれた舞踏会に相変わらず、目立つ背の高い気品に満ちた端麗な風貌のスウェーデン貴公子フェルセンは招待されていた。

幻想的な影を生む無数のキャンドル、軽やかな音楽、芳しい香りを放つ香水、何人もの貴婦人達が意味ありげな視線をフェルセンに向けていた。
既にそうした状況に慣れているフェルセンは、軽い微笑みをたたえながら、会話の輪に入ったり、軽やかに踊ったりして夜女達の胸をときめかせていた、
フェルセンは、他の男達を嫉妬させる程に華麗だった。

そして、真夜中にオペラ座に到着したのは王太子妃マリー・アントワネット。
アントワネットは、黒いドミノ仮装衣をまとい、黒ビロードの仮面を着けて、叔母のアデライード王女とお忍びで参加した。
その為、誰もがフランス王太子妃とは思っていなかった。

アントワネットは大勢の人々が居たにも関わらず、5ヶ月前に宮廷で出会った端麗な風貌のフェルセンを認めると喜ばせ胸を弾ませた。
そして、仮面を被って、身分を隠していた事がアントワネットを大胆にさせ、彼女は真っ直ぐにフェルセンの元へと向かって行った。

例え、身分を隠した仮装をしていても、ヨ−ロッパの長き支配者であるハプスプルク家の者が持つ、威厳と隠しきれない程の品格と華やかさがアントワネットにはあった。

肌は抜けるように白く、手足は細く、髪は絹糸のような光沢を放したブロンド。

フェルセンは、話し掛けて来た女性がフランス王太子妃だと気付かぬままに微笑みを返した。

若き18歳の2人は微笑みながら語り合った。
自由に語り合える喜びが一段と王太子妃の美しさを耀かせ、無邪気さ故にアントワネットは自ら仮面を外して、身分を明かした。

そんな二人の周りに徐々に人の輪が出来始めると「もしかしたら、あの、お方は…?」と、王太子妃に視線を走らせながら、ひそひそと囁く声が聞こえ始めた。
その状況に一早く気付いた女官達は、アントワネットを取り囲んでオペラ座を後にした。

オーストリア皇女とスウェーデン貴公子。
ヴェルサイユでは異邦人である2人の友情は、次第に宮廷内で噂となって囁かれ始めて行く…。

1774年5月12日
マリーアントワネットがフランス王妃になった2日後、フェルセンがヴェルサイユで王妃と謁見。
フェルセンは、暫くの間、物理と自然科学をソルボンヌ大学で学ぶ事を王妃に報告。
そして、今以上に王妃の悪評が拡散しない様にと、12月に自らスウェーデンへと帰国。

1778年
4年ぶりにフェルセンがヴェルサイユへと戻って来る。

『本当に私達は、ずっと前からのお友達です』

王妃は、お気に入りのフェルセンとの再会を心から喜び、フェルセンに対する自分の感情を装おう事が出来なかった。

一方のフェルセンは王妃を守る為に軍人として、飛躍の場を新大陸に求めて、自らフランス軍に志願を申し出た。
アメリカ独立戦争に参戦する事で王妃の熱い眼差しを避けるかの様に何千マイルの距離をおく決意をした。

王妃の喜びは、一瞬で落胆へと変わった。

1780年4月
パリのグルネル・サンジェルマン通りにある、スウェーデン大使館でクル−ツ伯爵は安堵の溜め息をついた。

先程、りりしい軍服に身を包んだフェルセンが大使館に現れて、これから軍港プレストに向かい、他の軍人達と合流しアメリカへ向かうと歯切れのいい声で挨拶したからであった。
フェルセンを見送ったクル−ツは、彼の決意に感謝するばかりだった。

日に日に拡散する、フランス王妃と若き貴公子との噂が昼も夜もクル−ツを悩ませていたからである。
フェルセンがフランスを去って大西洋を隔てた遠いアメリカに行けば、二人の間に距離が置かれて、噂も時と共に静まり、二人にとって、何よりも祖国スウェーデンとフランス両国にとって、安全となるものと確信していたからである。

父親のような眼差しで若きフェルセンを見送った後、クル−ツはスウェーデン国王グスタフ三世に手紙を書いた。

「陛下に是非共、お知らせしなければ成らない事は、若いフェルセン伯爵が王妃に余りにも好意的に見られており、その為に人々に懸念を抱かせていた事でございます。
王妃が彼に興味をお持ちに成られているのではないか?という証拠を私自身も何度も目にしております」


この手紙で明らかな様に王妃は誰の目から見てもハッキリと分かる程、あからさまにフェルセンを特別扱いしていた。

それに対して、冷静さを失わないでいたフェルセンの様子をクル−ツは手紙の中で誉めていた。

「若いフェルセン伯爵は、そうした状況であっても賞賛すべき態度を示し、控えめで態度を守り、何よりもアメリカに行く決心をしたのでございます。
彼は遠ざかる事により、自分が置かれている立場の危険を防ぐ事になるのでございます」


フェルセンと同い年で24才の王妃にとって、心を預けている人との別離は辛いもので傍目にも分かる程の様子もクル−ツは手紙に記している。

「別れの日が迫って来ると、王妃はフェルセン伯爵から視線を離す事すら出来ず、彼に言葉を掛ける時には、目にいっぱいの涙を浮かべておられました」

王妃の様子に見るに見かねた王妃付の女官フィツッ・ジェイムス公爵夫人がフェルセンに面と向かって尋ねた。

「まあ、それでは、貴方は征服を諦めるおつもりですか?」

フェルセンは、ジェイムス公爵夫人の目を真っ直ぐ見ながら、明るい声で答えた。

「もしも、私に征服すべき人が居るのであれば、見捨てる事など致しません。
私は自由の身で発つのです。少しの心残りもなく」


心底フェルセンを愛していた王妃は泣き崩れるばかりだった。

アメリカ独立戦争の参戦中、フェルセンと王妃は偽名で手紙を交わして、フェルセンは王妃を諭した。

『行動は慎重に。行動する前に手紙で相談する事』

フェルセンを愛する王妃は、彼との手紙によって心に平穏をもたらしていた。

フェルセンからの手紙の1通1通が王妃の気持ちと生活を変化させて、落ち着きある静かな暮らしを愛するようになった。

1783年6月
フェルセンが無事に帰還。
そして、手紙上で結び付いていた2人に別れていなければならない理由など、なくなった。
そして、帰還したフェルセンに王妃は引き返せない思いを伝えた。

『貴方に出会えて、恋をして、初めて私は生まれて来た喜びを感じる事が出来ました。
輝くような時間でした。
それをもっと、味わいたい。その為の覚悟は出来ています』


フェルセンも王妃の言葉に逆らう事はしなかった。

『命ある限り、あなたを愛する』

王妃は、ただ1つ、この思いだけを求めていた。

帰還したフェルセンを祝う夜会には、スウェーデン国王グスタフ三世も出席。
グスタフ三世は夜会の返礼に花火を準備していた。

そして、フェルセンが用意していた花火も打ち上げらた。
フェルセンの花火は一際、大輪の花を開かせて緋色のハート形となった。
更に花火は煌めき、赤い薔薇色へと変色すると人々の大きな歓声が湧き上がった。

この夜会の出来事は王妃にとって、生涯忘れがたい思い出となって、許されざる2人の愛は、多くの人々の前で愛を確かめ合い、満たされた一夜となった。

その後、フェルセンは王妃の計らいによって、国王ルイ16世からの承認を得てフランス連隊長の地位に就任した。

帰還したフェルセンを祝う夜会には、スウェーデン国王グスタフ三世も出席。
グスタフ三世は夜会の返礼に花火を準備していた。

そして、フェルセンが用意していた花火も打ち上げらた。
フェルセンの花火は一際、大輪の花を開かせて緋色のハート形となった。
更に花火は煌めき、赤い薔薇色へと変色すると人々の大きな歓声が湧き上がった。

この夜会の出来事は王妃にとって、生涯忘れがたい思い出となって、許されざる2人の愛は、多くの人々の前で愛を確かめ合い、満たされた一夜となった。

その後、フェルセンは王妃の計らいによって、国王ルイ16世からの承認を得てフランス連隊長の地位に就任した。

フェルセンの父は、息子が何故、頑としてフランスに留まろうとする事が理解出来ないでいた。
フェルセン自身は、父に『遺産相続があるネッケル嬢と結婚する為』だと答えていた。
しかし、妹ソフィア・パイパー(1757-1816)には、手紙で自分の気持ちを率直に書き綴っている。


フェルセンの妹ソフィア

(※フェルセンから、妹ソフィア宛に書いた手紙)
『私は自分の使命を果たす事にした。
例え、不自然であっても断じて生涯、絶対に結婚はしないと決めた。
私が以前、両親を失った不幸に出会ってから、親愛なるソフィー、君が私にとっての親や妻であるかの様に何があっても引き裂かれない大切な家族だと思っている。
私が属したいと思っており、私を心から愛してもくれている唯一の女性とは、私はどうしても一緒に家族を作る事が出来ない。
だから、私は自分を誰かに縛り付けたくないのだ』



ソフィア・パイパー


ルダンゴト・ドレスを着たマリー・アントワネット

1784年頃のファッション・プレート(見本)をフェルセンフが妹ソフィアに『王妃の散歩時の装い』として送ったもの。

ソフィアは、マリーアントワネットの崇拝者で後に一房の王妃の髪を譲り受け、所持していたという。

フェルセンがフランスに落ち着くまで以降、2年間はスウェーデンのグスタフ国王の下にいた。

1785年
アントワネットは『首飾り事件』で国民からの信頼を失って、孤立していた。

騎士的なフェルセンは、王妃が中傷されて、威嚇されていると知った時に全てを揚げて、真の愛を捧げるようになる。

『あの方は大変、不幸な方です。
私がただ1つ心に病んでいる事は、あの方の苦悩をすっかり除いてお上げする事が出来ず、あの方に当然な程に幸福にして差し上げる事が出来ない事です』


フェルセンの意思は、王妃が不幸に孤独になればなる程に力強く成長して行き、破局が近付けば近づく程に2人は激しく、引き寄せられて行った。

1791年
フェルセンは、王妃と国王一家を救出する計画を立て、テュイルリー宮殿を訪れる事を決心した。
しかし、フェルセンの思いは余りに危険な行為でもあった。

既にフランス国民の間では、憎む王妃の恋人という事だけでフェルセンの首ほど手に入れたい物はなかったからである。

このフェルセンの知らせを受けて、王妃は愕然とする。
王妃は、英雄的な犠牲をフェルセンに求める意思などなく、自分の命以上に彼の命を大切に思っていた。

『現在の状態から、貴女を救い出す事が絶対に必要です』

フェルセンの意思は固く、決して揺らぐ事はなかった。

1791年2月13日
午後17時半、意を決して変装したフェルセンは、奇跡的に無事パリに到着。
無事なテュイルリー宮殿を訪れた。

この訪問については、異なる説が二つある。
1つは公式報告で、もう1つはフェルセンの私的備忘録である。

●フェルセンは、最初の夜に国王夫妻に引見された(公式報告)

●王妃だけに迎えられて、王妃の居間で一夜を明かした。


翌日の晩、訪問後、初めて国王ルイ16世はフェルセンと対談した。
しかし、国王はフェルセンの提示した亡命脱出計画を拒否した。

第1に計画は実行不可能である事。
第2に国民議会において、パリに留まる事を公然と約束した以上、裏切る事は許されないという理由からであった。

1791年6月20日
フェルセンが莫大な私財を投じて、王妃と国王一家を救出するべく逃亡計画『ヴァレンヌ事件』が決行された。

しかそ、逃亡途中で国王はフェルセンの同行を拒否。
不本意ながらフェルセンの随行は終わり、その後、逃亡劇は僅か24時間で発覚して失敗に終った。
翌日、国王一家はパリへと連れ戻される帰還道中、民衆から罵倒罵声を浴びた。

《フェルセンが酷く心配していないか…》

王妃の不安は同時にフェルセンの不安でもあった。

(※1792年6月23日付/フェルセンがヴァレンヌ逃亡に関して、父宛に書いた手紙)

「全て終わってしまいました。
父上、落胆しています。
国王はヴァレンヌで捕まってしまいました。
国境まであと16マイルでした。
私の悲しみをお察しになり、哀れんで下さい。
ド・ブイエ侯爵が此処に来て知らせてくれました。
即座に私は旅を続け、国王の手紙と命令をブリュッセルにいるメルシー伯爵に渡します。
国王の指令があったのです。」

逃亡計画の失敗で国王一家が捕らえられた後、国王一家は厳しい監視下にあった。

王妃にとって、フェルセンと通信を取る事が非常に難しい状況下にありながらも王妃は手紙を書いた。

(※1792年6月29日付/マリーアントワネットから、フェルセン宛に書いた手紙)

「私は生きています。
ああ、どんなにあなたのことが心配だった事でしょう。
そして、私達の情報が無い事に苦しんでいらっしゃるに違いないあなたをどんなにお気の毒に思っ事でしょう。
返事は書かないで下さいくい。
私達全員を危険に晒す事になりますから。何よりも、どんな事があっても、こちらに決して戻らないで下さい。
あなたが私達の脱出を手助けした事は知られています。
こちらにいらっしゃると、全てすを失ってしまいます。
私達は、1日中監視されています。
私は大丈夫です。私の為に危険を冒さないで下さい。
私には何も起りません。
国民議会は寛大さを示しています。
メルシー伯爵を安心させて下さい。
さようなら、もはや手紙を書く事も叶わないでしょう。
これ以上書く事ができません」

王妃にはフェルセンへの愛情だけが残された。
その命を守る力をフェルセンは王妃に与える。

●列強諸国はフランスの無政府状態に乗じて、何らかの利益を掴む時期の到来を待っている事

●国王の弟プロヴァンス伯とアルトア伯が密かに王位を狙っていて、兄が命を落とす事など、どうでも良いと思っている事

●王妃の祖国オ−ストリアの実兄ヨーゼフ2世も妹の恐ろしい状況に殆ど関心を持たず、王妃を危険に晒している事

●国王ルイ16世は優柔不断で、王妹のエリザベ−トも国外の兄弟に操れている事


この状況下でもフェルセンは、王妃を救える者は自分ただ1人だけだと思っていた。
そんな王妃から、フェルセン宛ての手紙には、金の指輪が添えられていた。

『意気地なしよ、彼女を見捨つる者は』という文字が指輪に刻してあった。

この指輪は、王妃の指の寸法に合わて特別に作らせた物で、フェルセンに送る2日前まで王妃の指に嵌められていた品であった。

フェルセンは、王妃がタンプル搭とコンシェルジュリ−牢獄に幽閉された後も監視の厳しい中で王妃の救出作戦を何度も試みたものの、ことごとく失敗に終わってしまった。

1793年10月16日
王妃は革命政府によって、裁判に掛けられて死刑判決を受け、午後12時15分に処刑された。

フェルセンは、胸をズタズタに引き裂かれた思いを妹ソフィアに手紙を書いた。

『私にとって、全生涯を意味した女性。
私は何故に彼女の傍で死ななかったのか。
彼女の為にこの6月20日に死んでいた方が今、永遠の苦悩のうちに生き延びて行くよりか遥かに幸せであったでしょう。
敬慕する彼女の姿は、永久に私の記憶から消え去る事はないからです』


月日が経過してもフェルセンの思いは減じず、幾人かの愛人も彼の心を占めてはいない。
数年後の王妃の命日にもフェルセンは、思いを書き記している。

『この日は、私にとって、畏敬の念に満ちた日である。
私が喪ったものを私は、どうしても忘れる事が出来なかった。
私の痛恨は、私自身の命ある限り続くであろう』


6月20日のこの日は、マリーアントワネットの命日と共にフェルセンの運命の日として、絶えず書き留めている。
ヴァレンヌへの逃亡日、フェルセンが国王の命令に従って、王妃1人を危険に取り残す事になった日であった。

フェルセンは愛するマリーアントワネットが革命政府によって、処刑された時から、愛想のない暗い人間となって、アントワネットを殺した民衆らを憎む様になった。

1798年
フランス革命戦争の講和条約のラシュタット会議にスウェーデン代表として参加。
ここでポレオン・ボナパルトと会談して、この席でフェルセンは、ナポレオンにマリーアントワネットとの関係を聞かれたという逸話がある。

その後、グスタフ4世の元でスウェーデン国政に携って行くが民衆に対して、強圧的な振る舞いが多くなって、暴君者になっていた。
それは、憎悪の連鎖を呼び起こす事になって、民衆もフェルセンを激しく憎む様になった。


1798年
フランス革命戦争の講和条約のラシュタット会議にスウェーデン代表として参加。
ここでナポレオン・ボナパルトと会談。
その席でフェルセンは、ナポレオンからマリーアントワネットとの関係を聞かれたという逸話がある。

その後、グスタフ4世の下でスウェーデン国政に携って行く。
一方で民衆に対して強圧的な振る舞いが多くなって、暴君者になっていた。
それは憎悪の連鎖を呼び起こす事になって、民衆もフェルセンを激しく憎む様になった。

1809年
グスタフ4世は失政を糾弾されてクーデターによって廃位。
カール13世が王位に就き、クリスチャン・アウグストが王太子に就いた。
翌年、民衆からの支持も高かったアウグスト王太子が落馬で死亡。

『フェルセンが王位を狙って、王太子を毒殺した』と、暗殺首謀者としてフェルセンの名前がストックホルム中に広まる中、カール13世は冷静を装ってフェルセンに葬儀執行を命じた。

1810年6月20日
ストックホルム市内の広場でアウグスト王太子の遺葬儀が行なわれた。

6頭の白馬を率いたフェルセンの馬車が到着。
予てより、夢見ている運命を実現させようとフェルセンは、憎むべき民衆を掻き立てると、民衆らもフェルセンに投石して襲撃を始めた。

フェルセンは、馬上から引きずり下ろされると肩章が飛び、服が破かれて、血が流れ出した。
フェルセンと一緒にいた副官は、現場にいた近衛連隊の指揮官と兵士達に制圧を命じるも拒否された。

フェルセンは副官に救出されて、建物に身を隠すも侵入して来た暴民達に殴打され、頭部、胸部、腹部など踏み砕かれて虐殺されて、遺体は全裸で排水溝に投げ捨てられるという無惨な扱いを受けた。


フェルセン虐殺

フェルセンが虐殺された日は、19年前に国王一家と共に逃亡計画を決行した、その日であった。

遺体は、当日中にフェルセンの住居ステーニンゲ城に安置。
翌年4月12日にリッダホルム教会で改葬された。


ステーニンゲ城

フェルセン撲殺での逮捕人数は700名。
有罪で終身刑となったのは、2名だけだった。








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