ベルサイユの女王

14歳の若さでフランス・ブルボン家に嫁いで来たマリー・アントワネットは、数々の試練を勝ち抜いてヴェルサイユを征服した。

既に国民は、ルイ15世の乱れた治世に何も期待などせず、未来のフランスを担う若き王太子夫妻に夢と希望を寄せて人気を得ていた。

ある証人達は「彼女の容貌は、礼儀正しさの故に磨き掛かって見えた」

「1人1人に誠に典雅な口調で言葉を掛け、実に可愛らしい御辞儀をしたから、僅かばかりの日数のうちに誰もかも魅了なさいました。
彼女の物腰には、誰しも見とれてしまう様な魅力があります」
と語っている。

厳格なオーストリア大使メルシー・アルジェントー伯爵までも「姫は、微笑みそのものです」と告白している。

マリー・アントワネットは、フランス王妃の王冠を戴かないうちに既に魅力と典雅という王冠を戴いて、皆が彼女の周りにひしめき合い、ご機嫌をとった。

しかしマリー・アントワネット本人は、宮廷生活を送る中で違和感を感じ始めていた。

国王一家は、朝起きてから寝るまでの間、非常に厳格な礼儀作法、しきたりに従って1日を過ごさなくてはならなかった。

しかし、母国オーストリアで自由奔放に育ったマリー・アントワネットにとっては、宮廷の礼儀作法は意味がない事だと思えて、単調で窮屈で仕方がない生活を受け入れる事が出来なかった。

自分が望んだ結婚でもなく、夫はかまってくれないどころか夫婦生活も成就せず物笑いの種にされる始末。
挙句の果てに「田舎者のチビは、ろくに礼儀作法も知らない。
オーストリアの田舎娘にフランスの王太子妃が務まる訳が無い」
など、よそ者扱いの風当たりは日増しに強くなり、宮廷内での批判の声は次第に高まっていった。

故郷オーストリアを離れて、周りは敵だらけ。
肝心の夫は頼りにならず、誰も相談相手もいない。
そんな過酷な日々を送っていたマリー・アントワネットに結婚後、3年目にして、ようやく熱望していた明るく華やかなパリ公式訪問が許可された。


1773年6月14日
マリー・アントワネットの憧れたパリまでは、ヴェルサイユから馬車で約2時間の距離。
王太子夫妻は、盛大な行列と共に初めてパリを公式訪問した。

パリの国民達の歓呼の声で熱烈な歓迎を受けてマリー・アントワネットは、一目でパリを気に入った。
そしてマリー・アントワネットにとって、パリ訪問は素晴らしいものとなって、何処に行っても国民からの絶大な歓迎を受けた。

テュイルリー宮殿のバルコニーに現れた時には、ハンカチや帽子を振って歓迎してくれる民衆の為に王太子夫妻は、10回も姿を現して歓迎に応えた。

そして、自分達を見る為に集まった何十万人もの民衆を見下ろして、マリー・アントワネットは驚きの声を上げた。
その場に控えていたパリ軍管区司令官ド・ブリサック元帥は、マリー・アントワネットに囁いた。

『ここには、妃殿下に恋する20万人の人々がおります』

パリの民衆は、マリー・アントワネットの生まれ持った気品ある容姿と優美さを見て、『パリの恋人』と呼んだ。

マリー・アントワネットは、このパリ訪問の喜びと興奮の思いを母マリア・テレジアに手紙に書き記している。

《お母様、先週の火曜日には、生涯、忘れる事の出来ない祝典がございました。
私達はパリ入りをしたのです。
栄誉という点では、私達は想像しうる限りのあらゆる栄誉を受け、こうした事は全て非常に嬉しい事ではありますけれども、私を最も感動させた事ではありません。
最も心を打たれたのは、あの貧しい民衆の好意と優しさです。
彼らは、税金で苦しんでいるというのに、私達を見る喜びに興奮してくれたのです。

こんなにも、格安に民衆の友情を手に入れられるというのは、何と幸せな事でしょう!
ともかく、これほど貴重なものは何もありません。
私は、その事を心から感じましたし、今後も決して忘れはしないでしょう》


王太子妃として、大勢の国民の大歓迎を受けたテュイルリー宮殿だったが、16年後には自分を歓迎してくれた国民から、憎まれる存在となって夫や子供達と共に壮大なヴェルサイユを追われて、このテュイルリー宮殿に監禁される事になる…。

この頃のフランスは、平和が訪れて戦争が起こる気配もなかった為に国民は、マリー・アントワネットをフランスとオーストリアの和平の象徴として、彼女が備えている優雅さと気高さを愛していた。

1774年1月30日
深夜、マリー・アントワネットの人生にとって深く関わる事となる人物と運命的な再会を果たす。

パリのオペラ座で開かれていた仮面舞踏会に叔母のアデライード王女とマリー・アントワネットは、お忍びで出席した。
マリー・アントワネットは、黒いドミノ仮装衣をまとって、仮面を付けていた。

そしてマリー・アントワネットは、5ヵ月前に宮廷で紹介された背が高くて端麗な風貌のスウェーデン貴族フェルセン伯の事を忘れてはおらず、その場に居合わせたフェルセンに向かって歩み寄った。

フェルセンは、3年間ヨーロッパで教養を身に付けた後にパリの社交界にデビューしたばかりだった。
しかし、容姿端正のフェルセンは既に上流社会の貴婦人達からの人気を得ていた。

そんな知的で端正なフェルセンに心惹かれた無邪気なマリー・アントワネットは、歩み寄ると自ら仮面を外し、正体を明かして2人は再会を果たした。

自ら正体を明かす大胆な行動に出る程、マリー・アントワネットは、フェルセンの虜になって、フェルセンもそんなマリー・アントワネットに心惹かれた。
共に18歳の2人に打ち解ける時間など掛からず、互いに心惹かれ合った。

運命的な再会を果たした事でフェルセンは度々、ヴェルサイユに招かれてマリー・アントワネットから、特別の好意を持って迎えられる。
そして、次第に宮廷内で良からぬ噂が流れ始めて行く…。

1774年4月19日
マリー・アントワネットがオーストリアの皇女時代に音楽を教わった大作曲家グルックのオペラ『アウリスのイフィゲニア』がオペラ座で初演された。
彼は、ウィーン宮廷楽長であり、音楽と劇を結び付けたオペラ改革を行う斬新な考えを持った作曲家だった。

彼のフランス進出は、保守的なパリの宮廷楽師達からは歓迎されず、本来ならオペラ上演など不可能だった。

しかし、前年のパリ訪問で国民に大人気である事が証明されたマリー・アントワネットが、自分の恩師グルックを全面的に支持して、グルックのオペラ上演が実現した。

上演初日には、夫の王太子、義弟プロヴァンス伯爵夫妻、ブルボン公爵夫人、シャトル公爵夫人、女管長で親友ランバル公妃ら、大貴族達を全て引き連れて、オペラ座に出席した。

マリー・アントワネットが、恩師グルックに大拍手を送ると王太子妃への敬意と礼儀から、他の王族貴族達も拍手を送った。
こうして、フランス音楽にオペラが浸透して行くようになった。

1774年5月12日
マリー・アントワネットフランス王妃に即位。
2日後、かねてより「王妃の恋人」と噂されていたフェルセンは、宮廷での王妃への誹謗中傷を防ぐ為に自らスウェーデンに帰国した。


フランス王妃となったマリーアントワネットは、18世紀のロココ・スタイルのファッション・リーダーとなった。
マリーアントワネットは身長154cm、ウェスト58cm、バスト109cm。
当時のモードに合った理想的な体型でどんな服でも上手く着こなしていたと云われている。


王妃の身繕い

ロココ独特の髪型と優美な美しいドレスを身にまとい、豪華で最先端の流行を発信し、周辺諸国にまで自国ロココ文化を広め、影響を与えていた。

その発案者の1人が想像力と才能に恵まれた服飾デザイナーのローズ・ベルタン

ベルタンは「王妃のファッション大臣」とあだ名される程、頭角を現した。
ベルタンと出会うまでの王妃のファッション・センスは、それほど良くもなくシンプルな服飾にしか興味を示していなかった。
シャトル公爵夫人を介してベルタンと出会った王妃は、彼女がデザインするドレスを気に入って信任。
王妃の御用達となったベルタンは、毎週2回、多い時は毎日のようにヴェルサイユ宮殿にやって来ては、生地見本やリボン、羽飾りを王妃の私室に運んで二人きりで何時間も引きこもっては、最新の流行について語り合った。
ベルタンは、コルセットで締め上げた腰から膨らむ、絹の波のような優美でお洒落なリボンやレース、羽や宝石をふんだんにあしらった豪華なドレスを次々と流行らせたて、王妃のドレス担当として華やかな地位を確立し、莫大な富を築いた。

王妃は、2日に1度、豪華なドレスを新調して、美しく着飾っては舞踏会を開いていた。
記録によると宝石に3億4千万円、ドレスを毎年170着オーダーメイドして、その金額は年間10億円を超えた。
ある時は、1日に18着のドレスを新調して、その日だけで1億2千万円。

王妃はドレスサンプルから、その日1日の衣装を謁見用、部屋着、正装、仮面舞踏会用のドレスを決定する。
衣装係はコルセット、パニエ、絹の靴下、ネックレスなどの装飾品、扇や手袋などの小物を用意する。



引き裾の正装用宮廷ドレス/絹製(復元)
正称「ローヴ・ア・ラ・フランセーズ」

ローブ・ギャラントという背中にプリーツをたたんだ裾広がりドレス(正装用)に発展させたロココ時代の典型的なドレス。



ドレスの胸の部分に逆三角形の布を充てたデザインが特徴。
スカート(ペチコート)は、横に広がりのあるシルエット。
補正下着(パニエ)を合わせて着用。
当時は、細いウエストがもてはやされてコルセットを使って細さを強調した。

この時代の衣装には、フランスのリヨン製の贅沢な絹織物が使われた。
ドレス自体が装飾的な織柄で作られた上にレース/リボン/造花などの装飾が過剰なほど付加された。

1789年フランス革命によって、衣服が大変革を迎えるまで正装用として着用された。



シュミーズドレス/絹・リネン(亜麻)製(復元)

当時、カリブ海地方からパリに移り住んだ女性達が流行らせたもの。

この最新の流行を逃さなかったマリーアントワネットは、ローズ・ベルタンに作らせて、宮殿の王妃の小部屋やプチ・トリアノンなど、ごく私的な空間でくつろぐ際にのみ着用。
公の場では、見られる事はなかった。

1783年、白いモスリン(綿や羊毛で織った薄地の織物)製の肌が透けそうなシュミーズドレスを身に付けた王妃の肖像画がサロンで展示され、「下着姿」と冷やかされて大スキャンダルとなった。



イギリス風ドレス/絹製(復元)

白いモスリンは、下着のような見た目と共にイギリスから輸入された物であった事が反感を買った為、このドレスにはフランス・リヨン製の絹が使われた。

フランス風に比べて、リボンやレースがシンプル。
スカートを膨らませるパニエの広がりも控えめ。



羊飼いのドレス/絹・綿製(復元)
正称「ローブ・ア・ラ・ポロネーズ」。

ローブ・ア・ラ・ポロネーズは、「ポーランド風」ローブの意味。

上着とスカート、前掛けが組み合わされ、後ろ腰を釦と紐で持ち上げた、三つの襞(ひだ)が特徴。
宮廷以外の衣服は簡素化になる一方で髪型は、巨大化していく。



フランス風の舞踏会ドレス/絹製(復元)

ロベール・アンリコ監督のテレビ映画「フランス革命」(1989年)でマリーアントワネットを演じた女優ジェーン・シーモアが実際に着ていたもの。

マリーアントワネットが舞踏会に夢中であった事は、当時ヨーロッパ中で噂になる程で多い時には、週に1度舞踏会が開かれていた。


ベルタンがデザインしたドレス(復元)


ベルタンの作った王妃のドレス



18世紀のロココ・ファッションに欠かせないアイテムはストッキング、ハンカチ、扇、パラソル、帽子、宝石、仮面舞踏会用ドレス。


ベルタンが作った帽子

王妃はコルセットで絞り上げたウェストラインにバストが溢れるくらい大きく開いた胸元、パニエでボリュームを出し、大きく膨らんだ、首からウェストにかけての上半身の細さを強調させたデザインのドレスを好んで着ていた。
因みに1番好きな色はブルーグレーだったと云われている。

また、木と陶器で出来た人形にベルタンの作るモードドレスを着せたフィギュア・名称「パンドラ」。
人形には絹の靴下、アクセサリー、宝石、結い上げた髪、帽子や孔雀の羽飾りなど、王妃の肖像画に描かれている装飾品を身に着けた等身大に近いパンドラを母マリア・テレジアや姉妹達へ贈っている。


王妃マリー・アントワネットの為に斬新なヘアスタイルを次々と創り出した人物は、絶大な人気のあったレオナール・アレクシス・オーティエ。


レオナール

1769年の夏、20代前半のレオナールは無一文に近い状態でパリに到着。
虚栄心を抱えた男は南フランスを回りながら、髪結いの技術を磨き、ボルドーで髪結いとして生計を立てていた。
レオナールはパリで髪結いの見習いを勤めていたフレモンという男と親交があり、彼を頼り上京。
レオナールは幾つかの出版物で首都の髪結いの技術がそれ程、高くないと確信を抱いていた。

当初はフレモンの師匠でパリでも名を馳せたルグロの下で働くつもりだったが、技量に似合わぬ尊大な態度に納得がいかなかったレオナールは、自由契約でパリの髪結いデビューを果たす。
この時、フレモンに「三年以内に世界一の髪結いになる」と宣言したという。

当時のパリでは、劇団が旺盛を極め、三百フラン以上を稼ぐ「小さなかわいい妖精(ニンフ)」と呼ばれる女優達が大勢いた。
その中でもニコレ座は、国王ルイ15世の御前で演ずる栄誉に浴していた。
フレモンは、ニコレ座の女優ジュリーをレオナールに紹介する。
ジュリーは、劇団では人気女優というほどではなかったが、レオナールがひとたび彼女の髪を結い始めると、その奇抜で芸術的な髪型が評判を呼び、たちまち人気女優へと駆け上がり、レオナールとジュリーは直ぐに恋仲となった。

髪結いとしてのレオナールの評判は、直ぐパリ中に知れ渡り、ついにはアンブリモン伯爵夫人の館に招待される。
ここで国王ルイ15世のお気に入りのショワルズ公爵にいたく気に入られる。
良いパトロンが見つかったと喜ぶジュリーだが、レオナールはショワルズ公が国王の新しい愛人デュ・バリー夫人から嫌われており、国王の側近から追放される可能性が高い事を見抜き、距離を置く。

彼はその半生で何度も巧みに権力の風向きを読み、成功を掴んでいくのだが、これが最初の例となる。

彼の名声はパリ中に轟き、女優達からの注文が殺到する。
しかし、レオナールは満足できなかった。 

真の富と栄光は宮廷にある。
階級制度が確固として存在する世界においては、これは間違いのない事実。
しかし、直ぐにチャンスは訪れた。

ランジャック公爵夫人がレオナールの評判を聞きつけ、髪結いの依頼をした。
この小柄で可愛らしい公爵夫人は、直ぐにレオナールを気に入り二人は恋仲となり、これを端緒にレオナールは、貴族社会に分け入っていく。

そして、その後、デュ・バリュー夫人の専属となり、更に王太子妃マリー・アントワネットの髪結いにもなった。
特に高齢のルイ15世の愛人デュ・バリュー夫人からマリー・アントワネットの髪結いへと移行できたのは幸いだった。

デュ・バリュー夫人は、庶民出身の為に国王の愛妾という微妙な立場で宮廷に君臨していた為、国王の亡き後は追放の憂き目にあう事は明らかであった。

当時のパリには千人以上の髪結い師がいた中、レオナールはマリー・アントワネットに見初められた。
まだ当時、国民に人気のあったマリー・アントワネットにレオナールは、流行を追うのではなく、自身が流行の発信者となるように助言した。

また王妃が出産後の薄毛で悩んでいた時、「短い髪こそが新しいモード。6~7歳は若く見える」と髪を結えなくなった王妃を傷付けず、髪を短くしたア・ランファン(子供風)という低いヘアモードを導入した。

レオナールの考案した髪型は、リボンやレース、羽や花飾り、更には花瓶や鳥篭、船や軍艦を頭上に乗せた奇抜な盛った巨大化した髪型へと変貌していった。


左画:アメリカ独立戦争時の英仏の戦いで活躍した軍艦(フリゲート艦ユノ)の復元模型

模型を乗せた髪は、高さ最高3フィート(約100cm)にも及び、1777年~81年にかけて高さと奇抜さを競うようになった。



様々な形に結い上げられた髪は、当時流行のシノワズリ(和風)を基にされ、中国の貴族や日本の花魁のようなボリューミーでダイナミックな髪型。













そんな王妃の最新ファッションとヘアスタイルは、常に注目を浴びて貴婦人達の憧れとなり、誰もが王妃と同じように真似ていた。
しかし、王妃が次々と作り出す流行に乗り遅れまいとする貴婦人達の出費は増え、「王妃は貴婦人を破綻させる」とまで言われた。

人気者のレオナールは、旧友のフレモンと共に髪結いの学校を設立して、多くの弟子を育てた。
そしてマリー・アントワネットの髪型を再現したがっているパリの貴婦人達に育てた髪結い達を派遣していた。

また、マリー・アントワネットが新作の髪型で大衆の前に出る時には、賞賛の声を放つ人々を仕込むなどして、評判を上げるように勤めていた。

髪結い師として第一線を退いた後には、劇場の経営者として活躍するなど多才な男であったが、彼の運命を大きく変える革命が起きた。
革命発生前後から、多くの人々がルイ16世とマリー・アントワネットを見捨て保身に走る中、レオナールは最後まで国王夫妻に忠誠を尽くし、危険を顧みず様々な面で活躍するようになる。
この時、ルイ16世からは王権を取り戻した暁には、貴族の称号を与えると示唆されていたという。

しかし、革命で財産と多くの友人を失ったレオナールに栄光が訪れる事は二度と無かった。
パトロンであり、友人でもあった国王夫妻は断頭台の露と消え、しかも多額の金を王弟や貴族達に貸していたが王政復古後、貸した金が返済される事はなかった。

こうして、ヴェルサイユで繰り広げられた王侯貴族達の優美で贅沢なファッション文化は、フランス革命によって根底から崩壊していった。





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